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2002 年 4 月 3 日

国際問題調査会
イスラム諸国との友好の発展のために

  • イスラム諸国との友好の発展のためにもアメリカ追随外交の是正が必要ではないかと参考人の意見を求める。

井上哲士君

 日本共産党の井上哲士です。

 今日は、大変貴重な御意見をありがとうございました。板垣先生に二点、大塚先生に一点、御質問をいたします。

 日本の文明とイスラム文明が非常に共通の基盤があるというお話を興味深くお聞きをいたしました。私、地元が京都なもんですから、祇園祭りの山鉾に確かにイスラムの織物などが掲げてあるのを改めて思い出しておりました。そしてまた、一世紀前までは大変対話があったということも興味深く聞いたわけですが、残念ながら、これが言わば途切れてしまった。その最大の問題は何なのか。この文化という問題に限って、回復していく上で今一番何が必要かということが第一点です。

 それから二つ目に、新しい国力の概念としての文明間の対話力という提起も大変新鮮に聞いたわけです。やはり対話力といった場合に、聞く力とそして自分の頭と言葉で語る力ということが大変必要だと思います。

  〔会長退席、理事山崎力君着席〕

 その点で、先ほども御発言でありましたけれども、過度の対米追従があるんではないかとかということもありますし、この調査会でも過去にも議論になりましたが、例えば悪の枢軸という発言に世界的にはいろんな批判がある中で、日本のみ理解を示したということがあると思うんです。

 先生の著作の中でも、第二次世界大戦後は世界への関与が米国お任せとなってイスラムは自分たちの守備範囲外という気分になってしまった。言わば、日米安保条約体制の肉体化としてイスラムを外在化する思考の癖が身に付いてしまったのではないかと、こういう御指摘もされておりますし、アメリカのえんま帳の成績を気にする点取り虫をやめて、今こそ国際社会から尊敬される文明戦略を正面から提示すべきだ。日本独特の役割を演じなければならないということを繰り返し言われているかと思うんですが、日本が国際社会から尊敬されるべき独特の、独自の役割というのはどういうものかとお考えか、お聞かせいただきたいと思います。

 それから、大塚先生にお聞きをいたしますが、対話については、他者との出会いを契機とした自己反省と自己変革が必要だということが言われておりましたけれども、端的に今このイスラムとの対話で日本が求められている自己変革とは何とお考えか、この一点、お聞きをいたします。

参考人(板垣雄三君)

 お答えいたします。

 その日本とイスラム文明との、日本文明とイスラム文明との間の共通の基盤というそういうものがあるにもかかわらず、そしてまた一世紀前の日本人は、つまり明治の日本はイスラム文明に対する、イスラム世界に対する十分な関心というものを払っていたにもかかわらずそれがどこかで途切れてしまった、それは何かという御質問でありますけれども、今のお話の中で私が書いたものについて触れてくださいましたように、私は、やはり一九四五年の敗戦以降、状況が随分大きく変わったのではないかというふうに思っております。それ以降の日本社会において、例えばアジアといいますと、もう本当に中国と朝鮮半島と東南アジアと、そしてその東南アジアの向こうにインドが半分ぐらい見えるかという、そのぐらいが日本人の考えていたアジアでありまして、サッカーのアジア・カップとか、サッカーのゲームなどを通じて初めて、ああサウジアラビアもアジアなんだとかレバノンもアジアなんだというようなことをやっと気が付くというようなそういうふうな状況という。これは言ってみれば、どこかに世界認識を預けてしまって、そして見える範囲というのを何となく極東というような範囲に限定してしまった、そういうアジア認識の矮小化といいますか、そういうところにある。そして、これは先ほどから大塚さんが盛んに言っておられますように、参考人が言っておられますように、日本社会というものの内向きというそういう問題と非常に深く関係していると思います。

 それから、第二番目の対話力というものをどういうふうな格好で発揮できるのかという、そういうことでありますけれども、直接イスラム世界との関係を別としましても、例えば私はアメリカの中東研究者あるいはアメリカのイスラム研究者、そういう人たちともいや応なくいろいろな付き合いをするわけですけれども、そういうところで、アメリカの中にもいろんな認識がある。そういうところで、アメリカの、アメリカ合衆国という国、社会の中での様々な世界認識の在り方というものに対して我々はもっと目を向ける必要がある。公的なアメリカ合衆国としての対外政策上の政治的立場という、そういうことだけではなしに、アメリカの国民の様々な、殊にそういうイスラムの問題に関連いたしますと、アメリカの中のイスラム教徒、そしてまたアメリカの中のイスラム研究者、こういうふうなものとのそれこそ会話のポテンシャルという、それをもっと開発していく必要があるのではないか。そういうふうな中で、日本としては、アメリカに対してもまた、日本の立場からの忠告なり助言なりももっとできるようになるのではないかというふうに思っております。

 直接にイスラム世界との関係で申しますと、今日私が申しましたようなタウヒードといったような言葉の意味、それも我々がどれだけちゃんと理解しているのかということをあちら側の人々に示すことがどういうふうに効果的にできるか、そしてまた、何かイスラムとは我々は違うんだという、そういうことをもう頭から言ってしまうのではなしに、今日私の提出しました資料の中にいろいろと例を書きましたけれども、様々な意味での共通の基盤というか、もう我々は一緒なんだというそういう人類意識と申しますか、そういうものを相手側に提示する、そういうことが具体的にできていくという、そういうことが必要だろうと思います。

 例えば、イスラム教徒の、どこかの国のイスラム教徒の国会議員が来られるというそういう場合もあると思うんですけれども、そういうときに、イスラム教徒同士のあいさつというのはアッサラーム・アライクムという、こういう敬礼して胸に手を当てる、アッサラーム・アライクムというこれがあいさつですけれども、アッサラームが平和でアライクムがあなたの上にという、ピース・アポン・ユーというそういうあいさつです。あなたの上に平和があるようにと。例えば、そういうどこかの国の国会議員のイスラム教徒の方が見えたときに、アッサラーム・アライクムというそういう一言が先生方の方からも自然に出るという、こういうふうなことがやっぱりそういうイスラム世界との文明対話力の問題だろうと思います。

参考人(大塚和夫君)

 対話における自己変革、その具体的なという御質問だとも思いますけれども、実は先ほどの沢先生のお話のときに対話と会話が違うというお話をしまして、そのことをもうちょっと説明した方がよかったかなと思ったんですけれども、結局、対話という言葉、これが予定調和的な、どこかのゴールといいましょうか、というイメージなんですけれども、会話というのはそういう予定調和的なところを最初に設定しないというふうに私は考えます。

 つまり、そこで何が言いたいかといいますと、板垣先生が今日、日本の文化でしょうか歴史でしょうかとイスラムのそれとの間の共通点というのをかなり幾つかお話しいただきました。全く同感するんです。しかし、同感すると同時に、私はやっぱり差異、違いもあるということもついでに述べておきたい。逆に言いますと、やはりそこでは、初めから白か黒かで同じか違うかという話ではなくて、同じ部分もあれば違うところもある、そういう形で積み上げていく。だから、時には僕は摩擦も起きる、摩擦も起きても当然だと思っています。そういう意味で、予定調和的な一致点というものを前提にしない会話という言葉の方がよりいいのではないかというようなことで、先ほどの質問に対する補足なんですけれども、これが今の井上先生の御質問に対する答えの一部にもなります。つまり、そういう意味で、やはりある意味でいうと、彼らとの違いもあるわけです。

 また、彼らと今私言いましたけれども、実は彼らも当然一枚岩じゃありませんで、同じムスリムといったっていろんな人たちがいます。そこで、これはだれでもそうなんですけれども、話が通じる人間もいればなかなか通じない人間もいる。ムスリムだからみんな同じ考え方をしているということは当然これは言えないわけでして、これは当たり前といえば当たり前のそういう常識を持った上で彼らと対していくという前提を持たなければならないだろう。

 そういう前提の上で、自己変革という言葉、具体的にどういうことかということですけれども、実はこれは、もう常にここに並んでいる三人がいろんな形で言っていることに絡んできます。それをより抽象的な言葉で申しますと、やはり現在の、日本、日本人であるというか日本国民であるというその持っている前提、その持っている世界認識というものが、それを少し相対化してみるというかもう少し距離を取ってみるというか、具体的にどうするかというと、やはり例えばイスラムだったらイスラムのことを、直接そのムスリムと出会って、時には意見の衝突もあると思います。しかし、そういうプロセスを経た上で彼らときちんと対峙して、他者として、他者であると同時に共存する他者として対応していかなければならない。

 つまり、それは逆に言いますと、先ほど報告のときに申し上げましたように、我々が変わっていく。変わっていくというのはどういうことかというと、我々が持っている常識、この常識の中に世界の戦略といいましょうか世界の構図、今の世界はどういうふうに構成されているか、それをある方は恐らく対米追従という形で言われる、説明されるかもしれませんし、別な方はやはりそのアメリカ的な価値観というものをそれなりに評価して言われるかもしれません。しかし、そういうものを、しかしそこで問題になっているのは、やはり対アメリカとの関係であって、対アジア若しくは対イスラム、さらにはもっとアフリカ等々も含めたそちらの具体的な世界の情報を我々はどの程度持った上で世界観を語っているか、世界戦略を語っているか。

 確かに今の、何といいましょうか日本人の多くが持っている常識というもの、世界認識というのは、アメリカをどう評価するかは別として、やはりアメリカ、更には欧米的な、欧米から発信された情報に基づいたものがベースになっていると思います。それ自体を相対化していく、そういう形。

 これはもう少し具体的に申し上げますと、例えばマスコミ等々を見ましても、世界のニュースというものは、発信源の圧倒的多数が欧米であると。それをもっとダイレクトに、それ以外の世界の人たちが、どういう生の声を、どういうことを考えているか、どういうことを、どういう価値観で生きているか、それを、何というかな、あの人たちは後れているとかあの人たちはちょっと間違っているという形で考えるのではなく、それを一回そしゃくして、その彼らの言っていることを自分の中に取り込んでいく。これは、いや応なく自分の世界認識、地球世界というのはどういうものであるかということを変えなければならなくなります。

 そういうような形での、何というかな、世界をどう理解していくかという姿勢をより強めていく、そういうことが重要なのではないかと思います。


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