2007年6月15日(金)
文教科学委員会・中央公聴会
教育3法案について
- 元立教大学教授の藤田昌士氏は、道徳教育の研究者として、学校教育法に徳目が目標として盛り込まれたことの問題点について、陳述。また、与党公述人から、教育委員会に対する「是正要求」が盛り込まれたことに対し、「萎縮させるものであり、反対」という発言があった。
|
- 井上哲士君
日本共産党の井上哲士です。
今日は、五人の公述人の皆さん、ありがとうございます。
まず、今話題になっていた、指導が不適切な教員の人事管理の問題で氏家参考人にお聞きしたいと思います。
今、それぞれ公述人から御意見があったわけですが、法律家として見て、この制度に御意見があろうかと思うんです。国際的にもILOから調査団が来るというようなこともあるわけで、法律家の角度からこの人事管理の問題での御意見をまずお願いしたいと思います。
- 公述人(氏家和男君)
氏家でございます。
先ほどから公述人の方の御意見にも出ておりましたとおり、やはり何をもって指導不適格教員というふうにするかという、これは非常に難しい問題でありまして、そこのところが、私自身も事件を扱ったことがありますけれども、やっぱり一方的な考え方で認定するということは問題でありますので、人のやっぱり身分にかかわる問題ですから、これは慎重にやらなくちゃいけない。先ほどから意見が出ておりましたように、なぜそういうような形になっているかということをやっぱり十分見極めて、それに応じた、それぞれの問題に応じた適切な対応をしていくということが一番大事なことではないかなというふうに私は思っております。
- 井上哲士君
次に、佐々木公述人にお聞きいたします。
事前にいただいた資料を見ておりますと、佐々木公述人のホームページの引用がありまして、今の私からは信じられないだろうけれども、私も小学生のころ随分といじめられたというお話がありました。私も、法務委員会一時期御一緒しておりましたので、信じられないなと思って読んだわけでありますが、一方で、先ほどありましたように、検事として少年法なんかにも担当されたということがあるわけですね。私は、これ読みまして、本当に、いじめというのはいつだれが被害者になるか分からないことだなと思いました。
ですから、いじめられる子にも問題があるというとらえ方は間違いだと思うんですね。しかし、じゃ、いじめている子を排除したり、一方的に言わば犯罪行為だというふうなことで責めるのもまた違うのではないか。先ほどありましたように、やはり少年法などで対象になった子供が実は例えば家庭で虐待を受けていたり、そういうことも、背景もあるということも体験されていることだと思うんです。
そこで、学校におけるいじめ問題の解決という点で、どういうことが必要と体験上お考えか、お願いしたいと思います。
- 公述人(佐々木知子君)
ありがとうございました。
自分がホームページに書いたことを忘れておりましたので驚きましたけれども、実際に私は小学校のときに、どもりでもありましたし、よくいじめられたんですね。ただ、あのころのいじめというのは、どこでも、人間社会、動物社会でもいじめというのはありますけれども、さほど深刻なものにはならなかったと思うのです。というのは、周りでも助けてくれる子供たちもいるし、先生も見てくださるし、そういう意味で逃げ場がないということがなかったので。だんだん、今どんどんと逃げ場がなくなってきている。
それはどういうことかというと、いじめっ子もいじめられっ子もやはり問題を抱えているんですね。特に、いじめっ子というのは家庭でうまくいっていないそのストレスというか、その不満が学校でいじめやすい子に出ていると。必ずこれ保護者の問題が付いて回ります。いじめっ子、いじめられっ子と、今本当に陰湿ないじめが随分増えていて、これも事件に随分なったりとかして、ゆゆしき事態だなというふうに思うわけですけれども、これを、でも、学校の先生だけに何とかしてくれというと、これまた非常に学校の先生も負担だと思うんです。その話を随分学校の先生からも、自分がもういじめに遭っているみたいなもんだということもよく聞かされて、本当に私も同情するんですけれども、学校の先生だけじゃなくて、やはり学校の指導体制全体、校長だとか教頭だとか、みんな一致して事に当たれるようにしないといけないし、もちろん教育委員会もそこに出てこないといけないし、今度は、悲しいかな、私の住む港区ではスクール弁護士というのが導入されましたけれども、それもいずれ考えなければやはりいけない時代になってきたんだろうなと。
私は、できるだけ現場の教師の負担を本当に軽くしてあげたいと思うんです。いじめっ子、いじめられっ子だけじゃなくて、ちゃんと普通に生きている子たちもやっぱりいるわけで、その子たちにやはり手を掛けられるような教育現場にしてあげたいと、じゃなければ普通の子供たちの学ぶ権利というのが不当に侵害されているような気がしてなりません。
ですから、これは悲しいですけれども現実なので、起こっている問題をいかにうまく対処していくかということで、これはもう学校現場のみならず、社会それから国家が取り組まなければいけない問題だというふうに思っております。
- 井上哲士君
ありがとうございました。
次に、藤田公述人にお聞きします。最初の公述のときに、時間の関係で徳育の教科化について意見を飛ばされました。大変大事な問題だと思っておりますので、この点についてお願いをしたいと思います。
- 公述人(藤田昌士君)
実は徳育の教科化、これはまた一九五八年の道徳の時間特設当時のいろいろ議論にもさかのぼるわけですが、ちょっと御参考までに申しますと、当時、日本教育学会教育政策特別委員会というところから道徳教育に関する問題点(草案)という文書が発表されまして、道徳の教科あるいは時間の特設に批判的な見解を表明したわけです。
それはまあいろんな理由がございますけれど、一つは、基本的には目指すべき人間像と申しましょうか、戦後の教育が、一九五一年版の学習指導要領によれば判断力と実践力に富んだ自主的、自律的人間の形成という目標を掲げた、さらに、一九五三年の教育課程審議会が基本的人権の尊重を中心とする民主的道徳の育成という目標を掲げた。そういう目標に逆行するものではないかという、政治過程とも関連して、そういう批判点が根底にあるわけですけれど。
それと同時に、戦後の道徳教育改革というのは二つのことを原則にしているんですね。つまり、道徳教育と科学教育とを切り離してはいけないと。私は国史教育のことを例として申しましたけれど、道徳教育と科学教育を切り離すことは間違いで、両者をしっかり結び付けて新しい道徳教育をという構想。もう一つは、道徳教育を実生活から切り離してはいけないという、実生活と結び付いて道徳教育をということで、社会科を始めとする教科とかあるいは生活指導を通しての道徳教育が追求されたわけですね。しかし、道徳時間特設はそれに逆行するものではないかという、そういう批判を私たちは行ったわけです。
基本的に、今の教科化という問題は、そういう問題を解決するのではなくて、同じような、道徳教育と科学教育を切り離すとか、道徳教育と実生活を切り離すとか、そういう問題点をそのままに残しながら、新教育基本法第二条あるいは学校教育法改正案第二十一条により忠実な検定教科書を子供にあてがい、そういう道徳教育を志向するものではないか。
私は、研究者の一人としてそういう深刻な懸念を抱いておりまして、そして、再生会議の議論を見ておりましても、結局、道徳の教科にしなければ体系的な指導はできない。そんなことはないわけで、現行の道徳の時間でも、既に中央教育審議会の教育課程部会はそういう学校段階の重点を明らかにするというふうな改革案も議論していらっしゃるわけです。残るところは、教科にすれば教師がやらざるを得ないだろう、教科にすれば生徒に、子供に検定教科書をあてがうことができると。教師に対しても子供に対しても、強制と申しましょうか、押し付けと申しましょうか、そういう論理を感じないではいられないと。
そういう点を、私は学校教育法改正案に見るような政策構造とも関連して申し上げたわけです。
- 井上哲士君
ありがとうございました。
その言わばあてがうような道徳教育になるんじゃないかというお話がありました。私たちは、学校教育の中で社会的、民主的モラルを身に付けていくということは大変大事だと思ってはいるんですね。そういう点で、今のような言わばあてがい型の道徳教育というものが、子供たちにとってそういう民主的道徳を身に付ける上でもプラスになるんだろうかという疑問があるんです。
そこで、現行の道徳の時間で行われている教育の評価、それからそれを子供たちがどう受け止めているのか、そのことの関係でこの教科化をどうお考えになるか、その点をお願いしたいと思います。
- 公述人(藤田昌士君)
御承知のように、文部科学省が道徳教育推進状況調査というのをもう既に四回行っておりまして、だんだんポイントは、これは学校の代表者が答えるわけですから子供が答えているわけじゃないんですけれど、多少ポイントが上がってきたとは言われているものの、とりわけ高学年段階で、今の道徳の時間はためになるとは思わないとか、そういう否定的な評価が増えてくるわけですね。そこはやっぱり、さっき申しました科学教育と道徳教育が切り離されたり、あるいは道徳教育と実生活が切り離されたり、そういう欠陥が高学年になるに従ってそういう感想になっているんだと思うんです。
私は、しかし、教育再生会議は残念ながらそういうことをリアルに議論した形跡はない。道徳教育推進状況調査の結果を踏まえながらお考えになった形跡はない。
時間の関係もありますから簡単に申しますけれど、私は、道徳教育を批判すると同時に、創造するという課題を大事に考えなくちゃいけないと思っておりました。その一番土台は、学校には見えないカリキュラムがあるんだ、見えるカリキュラムと同時に見えないカリキュラムがある。それは、教師と子供との人間関係であったり、子供同士の人間関係、この見えないカリキュラムを民主的なものに組み替えていかないといけない。そこを素通りすると砂上楼閣なんだ。そして、そういうことでフォーゲルマン教授の言葉も紹介したわけです。その上に教科の学習とか生活指導を通しての生きた道徳教育があるでしょう。例えば数学教育などだって、微分、積分を学ぶ中で人間の偉大さに驚いた子供がいるわけです。そういう教科の力を生かしていく。
そしてさらに、私は、今の道徳の時間を、特に高学年では生き方探求に方向付けられたというか内に含んだというか、総合学習、そういうものに再組織していく必要があるのではないか。その原則は、科学教育と道徳教育をしっかり結び付けること、道徳教育と実生活とをしっかり結び付けること、この二原則を踏まえるということで、お手元にお配りしました論文にも、不十分ですけれど、私なりの提言めいたことも述べておりますので、御検討いただきたい。
ここは道徳教育研究会じゃございませんけれど、是非そういう教師の自由濶達な議論、そのための条件づくりを議員の皆さん方にはお願いしたいと思いますね。
- 井上哲士君
ありがとうございました。
もう一点、藤田公述人にお聞きしますが、最初の意見陳述の中で、今回の二十一条に掲げる道徳教育の目標が我が国を愛する態度をかなめとしているというお話がありました。この点は教育基本法の中の議論のときも随分あったわけでありますが、態度であって心でないので、内心の自由も侵さないし、いいんだという、こういう議論もあったわけですが、この点、公述人、どうお考えでしょうか。
- 公述人(藤田昌士君)
そうですね、態度と心を切り離されると。これは面従腹背なんというのはおかしなものですね。決して、人間として褒められたものじゃないですね。
態度というのは本来、心と申しましょうか、価値観を含んでいるわけですよね。そこを切り離しては考えられない。やっぱり態度の中には価値観が入っている。国を愛する態度、そこはやっぱりある価値観が含まれている。切り離すことは私は理解できないですね。
- 井上哲士君
ありがとうございました。
次に、最首公述人にお聞きいたします。
お話の中で、管理は教育の自殺行為だというような言葉もあったわけですが、先ほども出ておりました、いわゆる新しい職ですね。副校長とか主幹などを学校に新たに配置できるようにするということなわけですが、これが結局、管理化につながっていくんではないかという意見も公述人からも出たわけですが、この点、いかがお考えでしょうか。
- 公述人(最首輝夫君)
そうでなければいいなというふうに私は素直に思っています。
といいますのは、大分前ですが、主任制というのがありまして、学校の中に主任というのを位置付けましたよね。その前に、教頭というのを管理職として位置付けるという、そういう歴史があります。その歴史のつながりとして副校長とか主幹を置くんだったら、これは大きな問題だろうというふうに思います。
ただ、先ほどからの説明にもありましたように、学校事務あるいは管理面について、教員が多忙であるから、教員は子供たちにできるだけ時間を割いてもらう、そのために事務処理とか管理面については副校長とか主幹がやるというのであれば、これは望ましいことだろうというふうに思っています。
いずれにしても、教員、結局学校に二人定員が増えるわけですね。もし、それを増やすのでしたらば、子供に付く教員を増やした方が学校としては有り難いと。また、子供にとっていい教育をするには教員が多くなった方がいいだろうというふうに思うことは事実です。
私がやったものでは、教員以外の、つまり子供にとっては成長過程でたくさんの大人たちあるいは先輩、つまり異年齢ですね、こういう人間関係の中で人間性をはぐくんでいって健全な人格形成をしていくんだろうという考えがありましたから、学校の中に、養護教諭というのは一時期いじめの問題でクローズアップされましたが、あれもやっぱり教諭ですから先生というふうに子供は見ますので、カウンセラーといって、今国がやっているカウンセラーじゃなくて、ゆとろぎさんというのを入れました。市民ですね、市民が、要するに何もしなくてもいいから学校へ来て相手をしてくださいよと。それから、用務員さんがいます。これもやっぱり、子供にとってみれば先生ではないわけです。それから、読書指導員というのも入れました。こういうふうにして、学校の中にたくさんの教員以外のものを入れて、それをカバーしてきたわけですね、人間を。
そういうふうにして、日本の場合は少人数学級というのはなかなかやってくれないわけですから、それを市民でカバーしていただいたということはやってきましたが、今の話と関連して考えるならば、できればその二人分を子供に直接かかわる教員にしていただいた方がいいのかな。そして、事務処理は事務職というのがいますから、その範囲内で収まるように余りたくさんの事務を学校に持っていかないように、やっぱり教育委員会なり文科省辺りが、つまり行政が努力をする。この方が子供にとってふさわしい、いい学校になるんではないかなというふうに考えています。
以上です。
- 井上哲士君
最後に最首公述人にお聞きしますが、今回の地教行法で、いわゆる教育委員会に対する是正の要求、指示ということが盛り込まれるわけですが、この点についての御意見、余り時間ありませんので、簡潔にお願いしたいと思います。
- 公述人(最首輝夫君)
ちょっと、終わったと思って聞いていなかったんです。お願いします。
- 井上哲士君
教育委員会に対して国が是正の要求や指示をできるというのが盛り込まれたわけですね、今度の法案に。そのことについての御意見をお願いしたいと思います。
- 公述人(最首輝夫君)
失礼しました。
わざわざあれを盛り込まなくても、現実にはそれが行えるようになっていますので、あえてああいうものを入れることは、かえって、先ほどから申し上げているように、現場は抑圧される感じを強く持ちますので、現場としてはつらくなりますよね。まじめに一生懸命に子供と向き合おうという教員にとってみれば、何か上を見ていかなきゃいけないという雰囲気の中で意欲をなくしていく可能性というのはあるんではないかなと思いますよね。あれが管理体制だろうと思うんです。結局、余り賛成ではないですね。
御存じだと思うんですが、法律でちゃんとカバーしているんですよね。教育行政法ではなくて別なところで、首長部局を通じて指導ができるわけです。県教委を通じて知事が、市町村長を通して教育委員会に指導、是正をさせる機能というのは法律であると思うんですよ、それを私、聞いていますから。だから、あれをわざわざ文科大臣が仰々しく、何かあったら是正勧告を出しますよというのは、現場にとっては余り有り難くないことだろうと思っています。
- 委員長(狩野安君)
時間です。
- 井上哲士君
ありがとうございました。
|