【講演】
「鳥取県人権条例」を考える集いでの講演(05.10.30)〜鳥取民報(05.11.11)に大要掲載
県の人権条例の基礎となった国の人権擁護法案は、三年前に国会に提出されました。
それ以来、ずっと私がかかわってきましたから、法案と比較しながら、条例の問題点について報告したいと思います。
三年前、法案が参議院法務委員会に提出されたとき、実質審議はわずか一日でしたけれども、大変な問題が浮き彫りになり、それ以上審議ができないまま継続審議が続き、前々回の衆議院解散によってこの法案は廃案になりました。
法務省はこの法案を再び提出したいという姿勢を持っていましたけれども、中身自身が大変問題だということで提出できない状態が今も続いています。それが、今年の一月二十一日に、部落解放同盟の組坂委員長と、与党の中でこの法案を取りまとめてきた与党人権問題懇話会の座長である古賀誠氏の二人が会談をして、突如、今年の通常国会にこの人権擁護法案を一部修正をして出し直すということが合意されました。
私ども、これは大変だということで対応を始めましたが、与党内で注目すべき動きがありました。この人権擁護法案は再提出しようとすれば、もう一度、自民党総務会を通らなければなりません。その際に、前回はすうっと通ったんですが、自民党の中からずいぶん批判の声が上った。とりわけ、差別の定義、人権侵害の定義が曖昧で、言論などの自由の束縛になるのではないかという議論が浮上し、自民党として党内決議ができないという事態になって、通常国会に提出できませんでした。
このようにこの法案は野党が反対しているというだけではなく、自民党の中からも問題点が指摘され、日弁連、マスコミ、国連からまでも問題点を指摘されてきました。だからこそ、三年間も再提出すらできない状況に今あるわけです。
にもかかわらず、人権条例が鳥取県でつくられて、非常に驚きました。私も条例を取り寄せて読んでみましたけれども、国の法案よりも、はるかに重大な中身を含んだ条例になっています。
まず、国の法案の問題点についてふれ、次に県の条例について指摘したいと思います。
国の法案には重大な問題が三点あります。
国の法案の問題点の第一は、権力からの独立性がないという問題です。
もともと基本的人権は、国際的にも国内的にも、権力による人権侵害を許さないという運動の中で発展したという経過があります。最も救済が必要で、かつ救済が困難なのは、公権力による人権侵害です。警察、刑務所などの国家権力や大企業などによる人権侵害から弱者を救済することは、なかなか司法に訴えても時間も金もかかってできない。そういう中で、権力から独立し、簡易で迅速な人権救済ができる機関をつくることが必要だというのが、国連の勧告です。
ところが、国の法案は権力=「官」による人権侵害には大変甘く、国民同士=「民」による人権侵害には非常に厳しい中身になっています。
国連の人権高等弁務官自身が、日本の人権擁護法案に対して人権救済の国際的水準であるパリ原則に合致しないと、日本政府に書簡を送ったぐらいです。
法案では、人権委員会が法務省の外局として設置されます。名古屋刑務所での看守による暴行・死亡事件など、法務省の管轄下にある拘置所、刑務所、入国管理局で人権侵害が大変な問題になっています。委員会審議でも、法務省の外局では、身内が行った人権侵害は救済できないという声が強まりました。
第二点は、メディア規制の問題です。メディア規制は、事件の被害者が受ける、過剰取材による人権侵害を正すという名目で持ち込まれました。
法案は、メディアへ厳しい規制をかける一方、公権力によるプライバシー侵害には非常に甘い中身になっています。防衛庁が、防衛庁に情報公開請求した人の名前と職業をリストアップし、ネットに流すという事件が起きました。申請書に記入していない職業まで調べたものです。このような人権侵害は、法案では原則的に救済の対象になりません。
ところがメディア規制は、「私生活に関する事実をみだりに報道し平穏な生活を厳しく害してはならない」として、取材のために電話やファックスを繰り返すことなどが規制されます。しかも、侵害の認定は法務局の外局がやる。これでは、政治家、官僚の汚職疑惑など権力の犯罪を暴く取材が困難になり、著しく萎縮させます。
政府はメディア規制を当面凍結すると言っていますが、解凍をちらつかせることで、メディアへの圧力となるものです。PKO法の成立のときも、当初、PKFは法案では凍結されていましたが、その後解凍されて、できるようになりましたから先例があります。
過剰取材などの問題は、メディア自身の中で努力が行われており、自主的に解決がはかられるべきことです。
第三点は、広く国民の表現の自由に介入するおそれがあるという問題です。
森山法相(当時)は、「同和問題は物的には解決したが、心の中、意識の中に根深く残っているため、それに起因して起こった問題は、人権委員会が対処すべき問題だ」と言いました。
これでは、国民の内心の自由にふみ込むおそれがあります。
この人権擁護法案は、不当な差別的言動、差別を助長する行為を規制するとしています。国会の審議では、北海道でオフロの入口に外国人お断りの張り紙が出されたことが例としてあげられました。これは、外国人差別を助長する行為だということで、行政が当事者に成り代わって裁判に参加する、こういう仕組みだと説明されました。
もちろん、差別的言動は許されるものではありません。
しかし、表現行為は大変微妙なもので、その時の状況、いった人の思い、受け止めた人の思いによって、まったく意味が変ってくる。それを、これは差別的表現だ、差別を助長する行為だと行政の側が判断し規制することは、権力による国民の自由な言論への介入となります。
たとえば、私が国会質問で取り上げた、一九六九年に大阪で起こった矢田事件。教職員組合の支部役員選挙への立候補の挨拶状の一文が差別表現だと解放同盟が突きつけてきて、「糾弾」をし、教育委員会からの不当な扱いがありました。裁判では、挨拶状が差別文書に当たるかどうかが争われました。刑事裁判では「結果として差別を誘発する文書」と認定されましたが、民事裁判では「差別文書とはいえない」と認定されました。
このように何が差別表現かは、厳格な手続きをとり、双方弁護士を立てて、証拠も出してやるような裁判でも結果が分かれる微妙な問題です。
私の地元の関西では、相手に向かってバカというのは非常に打撃的で、アホというのは親しみを込めた表現です。一方で関東では、バカというのは柔らかい言い方で、アホというのは、言われた相手は大変侮辱されたと受け止めるそうです。
言葉は、そういう送り手の意図と受け手の伝わり方にずれがある。だからこそ、差別的言動にあたるかどうかは、司法の場に解決を委ねるべき事柄です。
しかも、法律で差別的言動が規制されることになれば、「あなたの言っていることは犯罪行為だ」という形で、部落解放同盟の「確認・糾弾」に法的根拠を与えることになります。そうなると、市民生活全般が監視の対象になり、ものの言えない社会になりかねません。
当時、国会では、独立性、メディア規制の二つ問題では野党も追及するけれども、国民の表現活動を広く規制するものだと追及したのは日本共産党だけでした。しかし、再提出の際は、自民党の中からも、人権擁護法案は言論抑圧法案になるという声が出されました。このように保守の中でも言論抑圧法案になると、危惧の念が広がっています。
つぎに条例について述べます。
人権は本来、全国的な統一基準で守られるべきものです。鳥取県でまともな議論もないままに独自条例がつくられたのは、まず、手続き上の問題があります。
同時に、鳥取県の「人権条例」は人権擁護法案より、さらに重大な問題を含んでいます。
第一点は、行政からの独立性がまったく欠如しているということです。
都道府県では、警察の問題があります。取調べの過程で、様々な人権侵害が行われています。ところが、人権侵害救済推進委員会について「知事直轄の機関」だと書いた新聞もあるように、委員の任命権が知事にあり、知事部局の職員が事務局をやる、予算面、規則制定でもまったく独立性がありません。
片山知事が議会の中で、国の人権擁護委員会について、「行政からの独立性がないのが問題だ」と答弁しながら、「地方自治では行政から独立した機関がつくれない」から、独立していなくてもしかたがないのだと答弁しているのは、まったくの驚きです。独立性が確保できないなら、つくるべきではありません。
委員会は知事の実質的な支配下に置かれたうえ、権限が非常に強力です。
国の法案は、一般救済と特別救済に分け、事態の深刻な特別救済について、調査に協力しなければ過料するとしています。しかし、過料の判断は裁判所が決定します。
ところが県の条例は、過料は知事によって科せられます。これでは、強制力をもった調査が恣意的に運用されるおそれがあります。県の担当者も「過料を背景にした調査で、これまでの調査よりも実効性が高まった」と一般紙で語っていますが、罰金をちらつかせながら、権力的な介入が可能になる。県の条例は、裁判所などの第三者機関が関与しない点で、国の法案より大変権力的な中身になっています。
しかも、県弁護士会が指摘するように「官」には甘い内容になっています。刑務所、警察などが、人権救済の申し立てを受けた場合、「刑の執行、捜査に支障をきたす」などの理由で、調査を拒否できる。一方で県民が協力を拒否すれば、過料されるのです。
第二のマスコミ規制の問題です。
国の法案は、犯罪を犯した未成年とその家族などへの過剰取材は規制の対象になります。一方で成人の場合、犯罪者本人の私生活の暴露は、特別救済の対象になりません。政治家など公人の汚職などを追及する取材をした場合、その家族が、過剰取材による人権侵害として申し立てることはできますが、公人自身は救済の対象外です。したがって、公人である本人に直接取材することはできます。
たとえば、和歌山市で当時の市長が自分の愛人が経営する旅館を公共の施設として買い取った問題がおきましたが、この場合、旅館の経営者との愛人関係を暴露することが、汚職事件の核心的な問題となりました。
しかし、条例では公人も救済の対象になり、政治家本人への取材も規制されます。政治家の不正を暴くために取材しようとしたら、プライバシー暴露だと言われて、取材ができなくなる。
第三に、県民の言論が広く制裁の伴う規制の対象になるという問題です。法案では、過料を課すのは、著しい人権侵害につながる問題での特別救済で調査拒否した場合に限られます。一方、条例では、「特別」、「一般」の区別がなく、全部が罰則を伴う規制の対象になります。
しかも国の法案の場合は、誰が言ったか、どういう状況で言ったか考慮して、規制される言論の内容をかなり限定しています。しかし、ここの条例には限定がありません。たとえば、条例の第三条の(三)を見ると、「特定の者に対し、その者の意に反して行う性的な言動、または性的な言動を受けたもの対応によりその者に不利益を与える」というのがあります。いわゆるセクハラです。法案の場合、セクハラ言動の規制は、上司などが職務上の地位を利用して“セクハラ言動”を行い、相手が畏怖、困惑する場合に限定されています。
一方、条例では「地位の利用」などなくても、相手の意に反して行う性的言動は、すべてが罰則つきの規制の対象になります。
相手の意に反して行う性的言動、これは本来、社会的モラルとして県民の中で自主的に解決すべき問題です。こういう言動を罰則付きの規制の対象にするということは、県民生活のあらゆる会話が対象になるということです。
さらに、第三条で「何人も以下に掲げる行為をしてはならない」として八つ書かれていますが、(四)から(八)は、国の法案では規定がない項目です。こういうものも含めて広く対象にしていますから、県民生活のすべての会話が規制の対象になります。この条例を使って、県民生活のすべての会話に、それは差別的言動だという形で、行政が罰則つきで介入し、規制することが可能になり、自由にものの言えない社会になる恐れがあります。
行政がよく言う「運用で解決される問題」としてとらえるのは、前提問題でまちがっています。時々の首長、職員が恣意的に運用ができる条例があっていいのかという問題です。誰がやっても恣意的運用ができないよにうにするのが条例の前提です。
知事の起こす様々な問題について、マスコミの報道もできない、多くの重大な問題をもつ、このような条例は、発動させないことが必要です。