活動日誌

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岐阜5区、愛知1区、2区で訴え/遠藤先輩のこと

 新潟を朝出て空路、中部国際空港へ。飛行機からみた富士山の美しいこと! 岐阜5区の多治見市、土岐市、名古屋市内の愛知1区、2区で街頭や演説会で訴えました。

 名古屋市名東区での夜の演説会で、不覚にも演説中に声を詰まらせてしまいました。

 演説会が始まる前に、ある女性から声をかけられました。「遠藤の妻です」。先日亡くなられた、私の高校の先輩(旧制広島一中)であり、愛知県原水爆被災者の会の事務局長として核兵器廃絶と被爆者援護の先頭にたってこられた遠藤泰人さんの夫人でした。

 「形見ですので受け取ってください」といって渡された封筒にはネクタイが入っていました。封筒には「寒風の中、本当にご苦労様です。遠藤も7月病床にて〈50年党員の証〉を受け取りました。彼からの贈物です。勝利を祈念しております」と書いてありました。

 「今日はこのネクタイをしめて訴えよう」と開会直前にネクタイを取り替えて演壇に立ちました。消費税や原発の話に続き、憲法に話を進め、「さらに許せないのは、維新の会の石原氏が核保有のシュミレーションまで口にしたことです」と強調し、続けました。

「私は広島育ちの被爆二世です。卒業した高校は爆心地のすぐそばで、登校していた先輩のほとんどは原爆で亡くなりました。人間の姿で死ぬことすら許さなかった先輩もいます。こんな理不尽は二度とあってはならない、核兵器は許してはならない、これが私の日本共産党員としての原点です」

「ほとんどの先輩が亡くなった中、数少ない生存者の一人が先日なくなられた、遠藤さんです。先ほど、夫人から形見のネクタイをいただき、今、締めています。先輩は7月に病床で50年党員証を受け取ったそうです。被爆者として、党員として生涯をかけて核兵器廃絶を訴えられました」

ここで、のどの奥があつくなってしばらくしゃべれなくなりました。

気持ちを整えてから、「憲法9条を変え、核兵器を持とうなどという連中に負けるわけにいきません」と心をこめて訴えました。

終了後、京都へ。明日、明後日は北陸三県を回ります。

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