19日は、朝から議員会館でデスクワーク。13時から、オスプレイの佐賀空港配備問題で防衛省レク。14時から国対会議、16時から議員団会議。19時過ぎ羽田発で佐賀市へ向かいました。
20日は終日、仁比参院議員、塩川衆院議員、赤嶺衆院議員の秘書らとともに党国会議員団オスプイ配備反対闘争本部としての、オスプレイの佐賀空港配備問題での調査。佐賀県、佐賀市、有明漁業協同組合、空港管理者から聞き取りをし、防衛省が自衛隊施設の建設を要請している空港隣接の干拓地、陸自目達原駐屯地を視察しました。
防衛省が計画している目達原駐屯地からの ヘリ50機の移動と自衛隊オスプレイ17機の配備が行われば、陸自の航空部隊として最大規模の基地になり、離発着回数での民間機より自衛隊機がはるかに上回ることになります。「共用」どころか佐賀空港が軍事基地化することになります。さらに米軍オスプレイの配備は、沖縄の負担軽減どころか、沖縄の騒音被害などはそのままに本土に被害を広げることにしかなりません。
県との懇談では、県として佐賀空港を格安航空機の拠点として発展させる立場に変わりわないことが表明されました。佐賀市との懇談では市長の「受け入れに賛成できる状況にない」との立場を改めて確認し、市に寄せられた市民の声の八割が反対、懸念を示していることが紹介されました。
共通しているのは防衛省から突然の表明があったまま、概要しか示されていないことに当惑している様子。にもかかわず防衛省は用地取得のための予算を概算要求に盛り込むことを表明しており、「見切り発車」的なやり方は許されません。
佐賀市との懇談を終えたところで、仁比議員が急きょ離脱し、広島市での大雨による土砂崩れの現場に急行することになりました。お互い体が2つ欲しいという思いです。
地元からは武藤県議、中山、山下両佐賀市議、九州ブロックの田村所長らが同行してくださいました。お世話になりました。
調査を終え、在来線と新幹線で京都へ。自宅着は23時過ぎ。
朝から議員会館で資料の整理など。午後から参院選挙制度協議会に出席。一票の格差是正のために、人口の少ない県に対し隣接する人口の大きい県の一部地域を編入する「選挙区域調整案」について議論しましたが、その場しのぎの数合わせ感が強く、住民の合意は得られないなどの理由ですべての会派が反対しました。
15時から、自衛隊オスプレイの佐賀空港配備の調査についての打ち合わせ。20日に議員団として現地調査をします。
23:45から「たけしのTVタックル」。13日に収録したものですが、中国脅威論をあおるVTRに基づき自民党参院議員を含む元自衛官三人と評論家が軍拡と集団的自衛権行使容認をあおる発言の連発。かなり反論したつもりですが、編集では随分落とされていました。ただ、政治家の出演は自民党と私のみ。「自共対決」でした。
13日の朝から、広島の実家に家族と帰省する予定でしたが、12日の午後に植木広報部長から手℡。いやな予感がしましたが、案の定、翌日夕方の「TVタックル」の収録に出演できないかという話。「集団的自衛権」等がテーマで出演予定者で政治家は自民党と共産党だけなので、でないわけにはいきません。
予定を変更して私は遅れて帰省することとし、準備のために急きょ、東京に行きました。13日の午前中は議員会館で資料整理や準備。昼前に収録の台本が届きました。テーマは「ニッポン人と戦争」で集団的自衛権問題が中心。政治家の出演は自民党の佐藤正久氏と私です。佐藤氏含め、元自衛官が3人といういびつな構成です。
16時にテレビ局入りし、17時から収録開始。VTRの内容や集団的自衛権推進派の発言ははもっぱら、中国の脅威にどう軍事的に備えるかというもの。紛争を戦争にしない外交的備えこそ必要と反論しました。さて、どんな編集になるかな。放送は18日深夜です。
終了後、京都へ。
68回目の広島の原爆の日となった8月6日。前日に広島入りし、党国会議員団として原爆養護老人ホームと原爆病院の慰問、広島県被団協・被爆者相談所での懇談を行い、途中、母校広島国泰寺高校の校庭にある広島一中の原爆犠牲者の碑にお参りしました。6日は朝6時に日本共産党としての平和公園での献花から始まり、原爆犠牲者追悼・平和記念式典、広島県被団協(坪井理事長)の追悼慰霊祭、原水爆禁止世界大会激励と続きました。
平和祈念式典は43年振りの雨の中で行われました。式典後の県被団協の被爆者追悼記念式典で挨拶に立った私は、「原爆犠牲者の皆さんの涙雨に思える」と切り出しました。今だに核兵器廃絶が実現せず、福島では放射能被害が続き、さらに集団的自衛権行使容認で再び日本が戦争国に進もうとしている――これらへの憤りの涙に思えたのです。
同時にのべたのは、核兵器の非人道性に対する国連総会の共同声明に百二十五か国が加わり、来年のNPT再検討会議に向け核兵器禁止条約をも取る各国の賛同が広がっていること。さらに、5日の胎内被爆者の全国連絡会が結成され、全国で被爆二世・三世の会の結成も続いていることや戦争する国づくりを許さない若い皆さんの行動の広がりも強調しました。
雨も上がり、昼前には原爆ドームの上に青空が見えました。涙雨の空から、核兵器も戦争もない明るい未来が見通せる空にしよう。被爆二世としての誓いを新たにした二日間でした。
2日は新潟県上越市からひる前に東京に戻り、演説準備や原稿チェック、買い物などなど。
3日は長野県知事選挙の野口しゅんぽう候補の応援に、東京を朝出発。佐久平で列車を降りた瞬間「う~ん、涼しい」と声が出ました。現地の皆さんは「今日も暑い」と言いますが、京都、東京と比べると天国のようです。まずは佐久市内で野口さんと街頭演説会。マスコミ取材も大勢でした。
続いて午後は上田市、夜は長野市で演説会。いずれも会場あふれる盛況で大いに盛り上がりました。野口候補も、「知事になって最初の議会での所信表明の予行演習です」とのべて演説を始めるなど、自信を持った訴えに迫力がますますついています。
私演説で今朝の二つの記事を紹介しました。一つが「毎日」の一面。民間船員を予備自衛官とし、有事の際に自衛隊員を輸送させることを防衛省が検討というもの。太平洋戦争では民間船2500隻が沈没し船員6万人が死亡とも報道しています。今回の閣議決定で、初めて自衛官の戦死者がでるだけでなく、民間人も動員され、いのちの危険にさらされます。
もう1つ紹介したのが「朝日」の投書。「戦争に行かなきゃいけないの?殺すのは嫌だから自殺する」と悩んでいた7歳の息子が「やっぱり自殺しない。殺すのは嫌だとはっきり言う」と話した。自分の考えを声にすることが大切だと息子に学ばされた、というもの。
子どもたちの未来のためにも、大人が声を上げる責任がある。野口候補勝利で声を示そう!
長野市の演説会終了後、東京へ。
京都の自宅を7時過ぎに出て、愛知県知立市議選の応援に入りました。定数3減で20になった中、日本共産党の現有4議席を確保する大激戦です。中島まき子、佐藤おさむ、池田ふく子=以上現、桐村かずま=新の各候補と訴えました。
日本共産党知立市議団の市議会での発言回数は全体の67%でダントツ。知立駅の高架事業の市の負担について、日本共産党市議団が県・市の負担割合の見直しなど財政力に見合う負担となるよう削減を提案するなか、23億円の負担削減が実現。
市民のたの財源確保してきた党だから、市民の願いを正面から迫力は抜群。ミニバスの拡充や中学卒までの医療費無料化、耐震改修補助金の倍加、35人学級を小4まで広げるなど市民とともに実現してきました。市民の願いを実現し、安倍暴走に待った駆ける四議席をと訴えました。
木陰で訴えるとセミが競って鳴き出し大合唱に。真夏の選挙ならではです。暑さに負けずがんばろう!
午後からは岐阜市内で開かれた全医労東海北陸地協の定期大会に参加して挨拶。他の来賓の方からは、「白衣を戦争の血で汚さない 」という集団的自衛権行使容認に反対する医療関係者の言葉が紹介されていました。それぞれの分野で、戦争する国づくり許さない思いをスローガンにすることはとても大事ですね。
終了後、京都へ。京都は午前中強い雨が降ったそうで、夕方に戻る涼しい風が吹いています。猛暑が続く中、ほっと一息がつける夜になりそうです。
今日告示の長野県知事選挙で「県民の会」の野口しゅんぽう候補の第一声で挨拶しました。現職は官僚出身の「オール与党」相乗り。対する野口候補のキャッチコピーは「憲法 しゅんぽう 今が旬」。いいですね。
私は、「戦争する国作り」に対する県民の審判を下すうえで、最高の候補であり、時期だとして、「まさに、今こそ旬」と強調。特に長野県は、満蒙開拓に一番多くの人を送り込んだ痛苦の歴史持っており、集団的自衛権行使反対・慎重の意見書の自治体採択率は全国一です。
現職は集団的自衛権行使容認について「国会の議論を見守る」というだけで、反対を口にしません。それもそのはずで、わざわざ東京まで来て安倍総理から直接、自民党の推薦状をもらいました。長野で自民党総裁から直接推薦状をもらつた知事候補は1996年以来。
林業の研究者として「憲法を暮らしに生かす」ことを信条にし、解釈改憲ノーをはっきり示しているのが野口候補。「どちらが、平和を願う長野県民の代表としてふさわしいかは明白ではないか」と訴えました。
野口候補は、この間の候補者討論会でのやり取りを紹介しながら、選挙の争点と政策を明らかにされました。候補者討論会では野口さんが圧倒しています。この人を何としても知事に、との思いがいっそう強くなる第一声でした。
終了後、国会に戻り、福井県の日本共産党地方議員の皆さんの政府要請に藤野やすふみさんとともに同席。福井から佐藤県議、西村、鈴木福井市議、山田勝山市議、山本敦賀市議が参加されました。
移動をしながら、次号の『前衛』のインタビュー記事の校正。夕方にやっと終わりました。
20時からプール。雷雨だったのですいてると思いきや、この暑さですから混んでいました。
国会閉会中は毎週火曜日が議員団会議。みんなが集まるこの日は、様々な会合もセットされ忙しい一日になります。
今日は午前中に、自衛隊による高校生に対する勧誘のDM等について、法的根拠や自治体の協力状況について説明を受け、資料の提出を求めました。その後、歯医者。13時から議員団の男女平等推進委員会の会議。引き続き副会長になりました。
13:30から国会対策委員会。14:30から原爆症認定制度について日本原水爆被害者団体協議会と日本共産党国会議員団との懇談。厚労省は司法判断にも反して多くの原爆症申請を却下しています。これに対し被団協の提言は、被爆者は原爆の地獄を体験し、全員が何らかの放射線被害を受けているとして、被爆者手当を創設し、疾病等により加算するというもの。合理的です。他党派とも協力してなんとか実現させたい。
16時から議員団会議で、佐々木憲昭議員を講師に、安倍内閣の骨太方針、成長戦略についての勉強会。活発な議論になりました。
夜は雑誌『前衛』のインタビュー原稿の直し。ああ、忙しい。
京都を朝出て京都府北部の舞鶴市、綾部市での演説会。舞鶴は11月、綾部は8月に市議選があります。舞鶴では、伊田悦子、小杉えつこ、ごの和史各市議、綾部では、井田かよ子、吉崎ひさし、つきがしら久美子、堀口達也各市議とともに訴えました。
地元の京都新聞は4日付社説で「政府は、来春の統一地方選挙への影響を避けるため、集団的自衛権行使にかかわる法改正は選挙後にするつもりのようだ。だが、暮らしを守る憲法への立ち位置は、地方選挙でも問うてしかるべきである。...当面は国政選挙がないとあきらめていては、政権の暴走は止められない」と述べました。その通りです。地方選挙で審判を下そうと、日本共産党へのご支援を呼びかけました。
さて今日は舞鶴市、先週は広島県呉市――海上自衛隊の基地のある市で開かれた演説会で2週続けて訴えました。両会場である写真集を紹介しました。2月に参院外交防衛委員会で広島県江田島市にある海上自衛隊幹部候補生学校を視察した際にいただいたものです。
表紙には「伝統の継承」とあります。何を継承するのか?「はじめに」では「『海軍兵学校』は『帝国海軍士官の故郷』として江田島に移転後、57年の歴史を刻んできた。その『海軍兵学校精神』は、戦後、『海上自衛隊幹部候補生学校」に有形
...、無形の伝統として引き継がれ、連綿と息づいている」と述べています。
そして写真集を開くと、左のページに海軍兵学校、右のページに現在の幹部候補生学校の写真があり、朝の体操から、食事、訓練、実習、卒業式にいたるまで、当時も今も同じようにやっていることが最初から最後まで掲載されています。
憲法九条の下で日本は「海外で戦争する国」とは決別したはずです。にも関わらず海上自衛隊が、帝国海軍の伝統を継承していることがひたすら強調されることに強烈な違和感を感じました。いつでも、再び海外での武力行使ができるように準備をしてきた、ということでしょうか。
集団的自衛権行使容認で「海外で戦争をする国」を再び許してはなりません。