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谷善さん没後50年

「谷善」と呼ばれて多くの京都市民から親しまれた谷口善太郎さんが亡くなられたのは1974年。私が大学入学広島から京都に来たのは1977年。お会いしたことはありません。しかし、入学した年の月に入党以来、様々な機会に谷善さんのことをお聞きしてきました。清水焼労働者としてのたたかい、厳しい弾圧、小説家としての仕事、国会議員としての活躍、人々の心をとらえた演説などなど。 

とりわけ大学卒業と同時に梅田勝衆院議員の秘書になってからは、その機会が大きく増えました。梅田さんは谷善さんと共に1972年に京都一区で初めて複数当選を果たした人。梅田さんに同行し毎年、新年と命日お墓参りをしお盆にはご遺族を訪ねてお焼香をしました。行動の途中などに、様々な思い出聞かせてもらいました。ですから生前の谷善さんと親しく交わっていたような錯覚に陥ることもあります。 

 初めて小選挙区が導入され1996年の衆院選挙で私は谷善が清水焼労働者として戦った東山くなるまで住んでおられ左京区を含む京都二区の候補者になりました。以来、私は、谷善さんの遺志を継ぐことを胸に刻み、その後参院議員に当選して「憲法と命輝く日本を」をずっと掲げてきました。谷善さんが亡くなって50年、今の暮らしそっちのけで裏金作りに熱中し、大軍拡にひた走る岸田政権に対し、谷善さん自民党政治そのものを終わりにしようと強く訴えられたことでしょう。私も総選挙勝利へ決意を固めて新年を迎えました。 

 その元旦を一変させた能登半島地震。京都でも大き揺れました。直ちに三日藤野前衆院議員や佐藤県議と共に輪島市に入り、鐙市議の案内で被災地を回りました。焼け野原になった朝市の通りの惨状には言葉がありませんでした。避難所の多くは高齢者で間仕切りも段ボールベットもなく、床に毛布をひいて疲れ果てた姿で過ごしておられました。三日目でもまったく食事は提供されていない状況でした。 

 国会に戻ってすぐに政府に改善を申し入れ、その後も被災地と連絡をとりながら党として人命第一での抜本的対応強化を求めています。 

 「国民の苦難解決」――創立以来100年余日本共産党が掲げ、谷善さんが力を尽くしてきたことです。その点でも今、党の真価が問われています。被災地の救難、復興にご一緒に力を尽くしていきます。(石川県の皆さんの記念誌に寄稿) 

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