どこへ進学するか、バンカラへのあこがれもあって東北大にしようか信州大にしようかなど考えました。選んだのが「反権力」のイメージの京都大です。「何でもやってやろう」という思いで入学してすぐにクラスの自治委員になりました。
ところが、当時(1977年)の京都大は「赤ヘル集団」による暴力が横行していました。彼らは、権力とたたかうと言いながら、学生に暴力をふるい、教室に乱入してきて講義をつぶし、教授会も学内で開けない状況でした。5月には教養部「スト」と称して、バリケード封鎖をしてしまいました。本来、自由な学問の場であるはずの大学なのに...。
自治委員として
僕も自治委員として、暴力一掃の運動に参加していきました。その中で、暴力に毅然(きぜん)として立ち向かっている人たちの姿にふれ、その多くが民青同盟や日本共産党の人でした。理不尽と正面からたたかう姿に共感し、1回生の5月に入党したんです。
入党して最初の夏に、広島で開かれた原水爆禁止世界大会に参加しました。
広島にいた高校生までの間、世界大会は毎年8月に全国から人が来てお祭り騒ぎをしているようで、実は反発がありました。ところが、夏休みに入ると、大会に代表を派遣するため大学の周りを一軒一軒訪問して署名とカンパを集めるのです。そのとき、全国の人が平和への思いを集めて参加していることが分かりました。
大会会場に先乗りしてデモ行進の隊列が集まるのを見たとき、同じ風景が全く違って見えた。お祭り騒ぎではなく、一つひとつの旗やのぼりの下にたたかいがある。「共産党に入ったのは間違いではなかった」と思うと胸が熱くなりました。
府学連や全学連の役員にもなり、全学連代表団の一員として78年には、キューバで開かれた世界青年学生祭典にも参加しました。
専従活動家への道
卒業が迫ってきて、親と「これからどうするんだ」という話になりました。父は銀行の管理職で、保守の立場でした。
僕は民青の地区委員長として専従活動家になると話したんですが、やっぱり大反対。母は泣きだしました。自慢の息子で〝末は博士か大臣か〟と思っていたのですから...。
結局、「やがて分かってくれるだろう」と初志を貫きました。
後に、96年に衆院京都2区(小選挙区)から初めて立候補したとき、父は立場の違いはあるものの「やるんなら、とことんやれ」と事務所に来てくれました。選挙事務所近くの飲み屋に行っては「息子をお願いします」と頼んでいたそうです。
当選したとき(2001年)はとても喜んでくれました。利権や不正と無縁な党の姿勢は評価してくれるようになりました。遠出が難しくなっていたため、亡くなるまで一度も国会に来てもらえなかったのが心残りです。
(つづく)
(了)